2023/12/26 16:23
あなたはなぜ本を読みますか?
または、なぜあまり読まないでしょうか?
私が本を読む理由は、本が私の問いに応えてくれるからである。
本を選ぶ基準もそこにある。
今、この時代を生きる私自信にかんする問いに基づいて本をよく読む。
選んだ本がはずれることもある。はずれてよかったこともたくさんある。
そうすると、小説は少なくなる。別に小説は嫌いではないのだが後回しになりがちだ。
特にエンタメ系の小説はめっきり読まなくなってしまった。
自分の疑問が出発点になることが多いので、読む本のジャンルも偏る。
でも、書店に行って本の一群を目の前にすると、
本が私を呼んでいる気持ちになる瞬間がある。
「この本を読まねばならない!」と思って手を取る。(またはAmazonのカートに入れる)
だからと言って金銭的にもすべて手に入るわけではないし、読む時間も限られる。
でも、読める量以上の本を買ってしまってどんどん積読本の山が膨れていく。
本の前にはひれ伏すしかないのか。
ジャン=リュック・ナンシーというフランスの現代思想家がいるのだが、
彼の著書『思考の取引』(岩波書店)的に言うと、我々は「啓典の民」なので、
自分の主体の有無にかかわらず、本を読むことを強いられていることになる。
とは言いつつ、本音では、本なんて読まずに生きていけたらと思うこともある。
無理して読まなくても死にはしない。
でも、本を読まない人生は空虚で、その空虚さに私は耐えられない。
それは、世界との断絶、社会との断絶を強調して感じさせるからだと思う。
ここまで書いて、思い出した言葉がある。
北海道の浦川にある統合失調症患者の自助グループのべてるの家を追ったルポ、斉藤道雄の『治りませんように』(みすず書房)の中にある「しあわせにならない」というフレーズだ。
斉藤は「しあわせにならない」をこのように説明する。
「しあわせにならない、というのは、けっして不幸になることを勧めているわけではない。またしあわせそのものを否定しているというわけでもない。しあわせになるという生き方が陥りがちな、閉じてゆく方向性、他者への関心の喪失、それがもたらす人間存在の陰影のなさを突いている。」
べてるの家では、「三度の飯よりミーティング」といって、ひたすらに対話を重ねる。
対話の中で自分の病気と向き合い、自分の精神と折り合いをつけながら暮らしていく。
生きることの苦悩から生まれる思想に触れることで、なぜか私が励まされている。
私は、この言葉を知った時、頭を殴られたような気持になった。
社会と個人の関係を心の言葉(しあわせという単語)からこんなにもうまく書けるのかと。
そして、個人の生きざまとして確かにそうだと納得感もある。
そして、その時から私の人生の指針のひとつに「しあわせにならない」が入ってきた。
本を読む理由も「しあわせにならない」ためにかもしれない。
本を読む、主人公に共感する、ワクワクドキドキする、ストーリーに驚く、
本を読む、何かを知る、へぇーと思う、もやもやする、すっきりする、わからなくなってまた読む。
本を読むことは、私の感情を揺さぶり、私の世界観を揺さぶる。
その揺さぶりが学びになる。そして、私を支える。
私は、私であるために本を読む。そしてまた揺さぶられる。