2024/03/15 22:46
自分の空っぽさに気づくときほどつらい瞬間はない。
むなしく、苦しく、寂しく、切なく、申し訳なくなるあの瞬間だ。
自分は何をしているんだろうと思う。目の前のこの人にとっては僕なんてとるに足らない存在であるのに。
勝手にことばにもだえ、涙を流し、偏見を垂れながす姿はどう見ても滑稽で、同時に若さの象徴だった。
どんなにことばを尽くそうとしても、何も出てこないこの口は何のためにあるのだろうか。これは口の問題というよりも心の問題か?
そんな自己嫌悪に陥る。
のうのうと暮らす僕が見る世界はとても近視眼的で解像度が荒かった。
苦しみや、やりきれないことから逃げる。
その場から逃げるだけでなく、ことばにすることからも逃げる。それは思考停止ともいう。
自分の問いに向き合おうにもそもそもその問いがわからない。
だから、ことばにもだえ、涙を流すほか表現がなかった。
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2017年冬。僕は知人に連れられて北海道の二風谷に来ていた。
アイヌ文化の勉強のためだ。
その知人にアイヌの方にも引き合わせてもらった。これとない学びの場だった。
アイヌ文化博物館を案内してもらったり、雪が降る山で自然との関係について話を聞かせてもらったりした。
僕は何故か殺気だっていた。
自分の中にある差別心や、日本の植民地主義を批判し、乗り越えたかった。こんな社会で差別と共に暮らすアイヌの人々のことを助けるにはどうすべきかを考えていた。頭でっかちに小難しく、そしてどこか自傷行為のように自分に思考を突き刺していた。
だから、僕は彼女らに会うとき、何をどう表現できるかがわからなかった。正確には「どう表現すべきか」がわからなかった。
この社会の問題を自分の問いにしようと必死だった。でも、等身大の自分から離れた自分は、焦点の合わない僕の額の上くらいをぷかぷかとさまよっていた。
そんな僕は彼らの前で泣くことしかできなかった。
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あの時の僕は、何かに不安になっていた。
不安を解消するために休学して旅をして戻ってきたはずなのに、また違う不安でいっぱいになっていた。
休学前にお世話になっていた先生が癌で亡くなって、ゼミの行き場が無くなったこと。卒論のテーマが決まらなかったこと。就活にも乗り気になれないことへの焦りもあった。
1年休学したこともあり、同期はみな卒論を書き上げ、あとは卒業を残すのみだった。
漠然とした不安と焦り。
みんなと違うところを見せたいというちっぽけな自尊心もあった(かもしれない)。
自分の問いとはなんだろうか。
わからない日々が続いていた。
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あの日々から僕は少しでも成長しているだろうか。
大学を卒業して、就職して、結婚して、子どもが生まれ。
自由であるが、ある意味で自分の責任の範囲がわかりやすい基準で設定しやすくなっている。
だからこそ、こころは平静であることが多い。給料は低いが、人生も満たされている。
それでよいのか?と自問する。
あの日々は、この社会に起きる問題をもっと直接的に自分の責任だと思えた。
だからこそ、ことばにもだえていた。
では、今は?
僕は転向したのだろうか。それとも、いろんな関わり方があるうちの1つを体現しているだけなのだろうか。