2024/01/09 23:11
昨年末、「本を読む理由ーサカイの場合ー」と題した記事を投稿した。https://kyugakusha.base.shop/blog/2023/12/26/162347
これは、個人的な理由を書いただけだが、本を読むことが社会的にどのような意味をもつのかを考えたい。
「はて?読書とは個人的なものではないのか?」と思う人も少なくないだろう。
実際、かなり本を読む読書家も楽しみや自己研鑽のために読んでいると感じているかもしれない。
しかし、あらゆるものがそうであるように読書も社会が注目していることでもある。
1,宗教的な読書
古くは宗教的な経典である。
世界で一番読まれている本と言えば、聖書であろう。 聖書や イスラム教のコーランなど古くから宗教的なものとして読書が行われてきた。この時の読書は、もっぱら宗教の布教であったり、信仰の中に位置づけられてきた。
インドネシア人の先生の家にホームステイしたことがあるが、彼はムスリムで、毎朝コーランを読んでいて、これを「良いこと(徳を積む」だと述べていた。
また、私の母は最近まで、毎朝般若心経を唱えることが日課だった。(最近はコロナ後の体調不良でできていないようだが。。。)
経典を読むことは、ここ2000年くらいの伝統を持つ宗教的な読書であるともいえるのではないかとも思う。
2,消費生活と読書
ただ、現代を生きる私たちは「読書」と言った時に宗教と結びつけることは主流ではないと思う。もっぱら、小説やエッセイ、コミック、新聞など大衆文化を娯楽として楽しむものとしてとらえているのではないだろうか。つまり「娯楽としての読書」である。
大衆文化としての読書の歴史は古く、日本では江戸時代に発展する。写本ではなく印刷技術の向上により文化が大衆化していった。洒落本や黄表紙と呼ばれる小説が流行ったりした。ヨーロッパでは「グーテンベルクの銀河系」とも評される活版印刷が発展し、新聞や小説と言った大衆文化が花開いた。
その後、産業革命とともに生まれた新たな生産体制をもとに大衆消費社会が到来。庶民は労働者として働くようになり余暇が生まれた。
この余暇を暇にしないために、様々な消費財が誕生し、本も大量に生産されるようになっていった。
この場合、私たちは社会の中で消費するものとして「読書」があり、企業も大衆が余暇で行う消費のための本を作って売るようになる。こうした社会では、「読書」は私たちの「消費生活」とは不可分なものとなっていった。
3,教育と読書
私たちは、読書を余暇としてとらえている。昔は「本を読むと馬鹿になる」と言われ、「マンガを読むと馬鹿になる」と言われたりもしたなんて話も聞いたりすることもある。
ドイツの哲学者ショーペンハウエルは『読書について』という著作の中で、ひたすら読書における功罪の「罪」について考察をしている(らしい)。
ただ、我が国の教育を司る部門である文科省は読書についてこのような見解を述べる
『読書活動は、子どもが、言葉を学び、感性を磨き、表現力を高め、創造力を豊かなものにし、人生をより深く生きる力を身に付けていく上で欠くことのできないものです。』
教育の成果なのか、私たちは、読書をこの文科省的な意味でとらえることが多い。自分は本を読まないくせに子どもには本を読んでもらいたいと思っている親も多いのではないか。重要なことは、文科省はこの文章を「子どもの読書活動推進ホームページ」というページを作ってまで子どもに読書をさせようとしていることである。
もちろん昔から、何かを学ぶことは本を読むことであった。それは寺子屋の時代から変わらない学びの方法である。私たちは、余暇を楽しむという側面とは別に、「読書をすることは賢くなること」という価値観のもと読書を推進しているし、国がそれを進めている。でもなぜか、教科書を読むことは読書とは言わないのはなぜだろうか。。。
教育と読書で多くの人の記憶に残っているものと言えば「朝読書」だろう。ホームルームの前に10分とか15分ただ本を読む時間だ。
この朝読書の歴史を調べると面白い由来が出てきた。1970年代から行われ始めた活動だったが、船橋学園女子高校(現:東葉高等学校)の教員で林公・大塚笑子両教諭が1988年に全国的に広めた活動だと言う。当時ホームルームの遅刻や心の荒れがを整えてから1日を始めたいと考え朝読書を導入し、大変効果があったと言う。つまり、学級づくりや生徒指導の一環として読書が使われて始めたと言うことだ。
私たちの読書は成長のためではなく、集団のコントロールのためにも使われると言うことでもある。ここでは読書の内容ではなく読書するという行為が重要であることに注目しなければなるまい。
4,政治と読書
公教育の場で読書が推奨されるとこは、ある面で政治的でもあるが、ここで注目するのは、政治が読書を弾圧した歴史である。
本と弾圧と言えば皆が真っ先に「焚書坑儒」を取り出してくる。しかし、時の権力が本や文化を攻撃することは定番である。本には思想が宿っているからである。婉曲的ではあるが、本を読むことも思想的なことであるともいえる。
戦前の日本の治安維持法、戦後台湾の「白色テロ」、1981年韓国で起きた「釜林事件」。
これらは、読書会を開いたことや参加したことがあるということで不当に逮捕され拷問され、時に処刑されると言う悲惨な読書の歴史である。よく、社会主義は人民を弾圧するとか言われるが、ではそうでない政権が起こしたこれらの弾圧はどのように説明するのか。つまるところ、いかなる思想であっても権力は人民を弾圧するということではないか。
これらの事件からわかることは、権力は読書が怖いのである。もちろん、教育や思想を広めるために読書を推奨する。ただ、あくまで権力が許す範囲での読書である。しかしそれは読書の本質とは異なるものであろう。
さいごに
ここまで見てみると、単に読書が個人的な営みとは言い切れない側面が見えてきたのではないだろうか。もちろん、ほかにもいろんな切り口で読書の社会との関連を考えることができるかもしれない。あくまで、私が考えることができる範囲での読書について調べてみた、というところだ。
政治と読書のところで、読書会の弾圧について述べたが、近年は読書会がブームになっていたりもする。いろんな形式があるが、本を語るために集まる会である。こうした会は、まさに読書が社会的な意味を持って私たち個人をつなげるツールになる。私も読書会に参加したりするが、読書会でなければ読まない本もたくさんある。誰かと集まるから本を読む。これだけで実は読書は社会とつながっていると言えるはずだ。
これを読んでくれた皆さんには、ぜひ自分なりに社会にとって読書とは何を意味するのかを考えてみてほしい。きっと、新しい読書の意味付けが見つかるはずだ。
参考URL
山口周『ショーペンハウエルは、なぜ「本を読むとバカになる」と言ったのか?』ダイヤモンドオンライン https://diamond.jp/articles/-/148479 2017年11月30日
Wikipedia『朝の読書運動』ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E3%81%AE%E8%AA%AD%E6%9B%B8%E9%81%8B%E5%8B%95
『「朝の読書」運動は東葉高校から飛び立った!』https://www1.e-hon.ne.jp/content/asadoku_y_1124.html
子どもの読書活動推進ホームページ https://www.mext.go.jp/a_menu/sports/dokusyo/suisin/index.htm
西日本新聞 ワードBOX「釜林事件」https://www.nishinippon.co.jp/wordbox/7563/