2024/01/05 13:58
正月早々、石川県を震源に巨大な地震が起こった。なぜこうも世界は私たちに試練を与えるのだろうか。
この地震についても、なくなられた方々へ哀悼の意を表するとともに、早い復旧がなされることを願っている。
本記事では、昨年世界に衝撃をもたらしたパレスチナ問題について少し言及したい。
2023年10月7日。
パレスチナのガザ地区の政権であるハマスが、イスラエルに奇襲攻撃を仕掛けた。
3000発にも及ぶミサイル攻撃とともに国境を越えて、イスラエルの村を襲い多くに犠牲者を出した。
この報道を見ると、「またテロリストが攻撃か?」という人は少なくなかっただろう。
しかし、パレスチナとイスラエルの歴史やイスラエルによる入植の過程を見れば問題は単純でないことは明らかだ。
また、歴史をふり返らざれども、その後のイスラエルの「報復」が度が過ぎていることは誰が見ても明らかだ。
ガザ地区からパレスチナ人を一掃し、エジプトに難民キャンプを作ればいいのだという内部文書も流出した。
エジプトはハマスが攻撃の準備をしていることをイスラエルに警告していたこともわかっている。
イスラエルは、ガザに地上侵攻する口実が欲しかったのではないかという仮説も真実みを帯びてくる。
西側諸国はイスラエルに同調し、明らかにウクライナのそれの対応とは異なる態度を示している。
誰も、「やりすぎ」と言えない。国連はちょっと言っているみたいだが、イスラエルは聞く耳を持たない。
ただ、人が無残に死んでいく。そして土地が壊されていく。
私たちは、この事態に対して、とりあえず「停戦」を言い続けるしかないように思える。
イスラエルのパレスチナへの入植をやめさせる言葉を紡がなければならない。
ウクライナ同様に私たちは、大きな事件になるまで沈黙してきた。手遅れといえばそうなのかもしれない。
でも、もっと手遅れにはさせてはならないとも思う。
私のようなちっぽけな存在が何を書いたとて世界に影響はないかもしれないが、それでも何かを表明することに意味があると信じる。
ここからは、一人の批評家であり思想家のエドワード・サイードの著作を紹介しながら、私なりの反植民地主義の表明としたい。
私にとって、サイードの著書は思い出深いものである。
大学2年の冬。2014年~15年にかけてだったと思う。
春休みに参加するインドネシアプログラムに向けた事前学習会があった。その時の課題本の一つがサイードの『イスラム報道』だった。
原題は『Covering Islam』
”Cover”とは「報道する」と「覆い隠す」という意味をもち、タイトルがダブルミーニングになっている。
本書は、アメリカでの報道の在り方によって、いかに、イスラムやアラブ人が危険な存在としてイメージが作られてきたのかを明らかにした。
本書を読み進めると、現代日本に暮らす私たち自身も、メディアに支配されていることを考えさせられる。
私たちが報道で「イスラム」という言葉を聞くとき、
そこには、「原理主義者」が「教義」によって「自爆テロ」を行い、私たちの世界に「脅威をもたらしている」というメッセージも発せられている。
確かに、これは一面では正しいかもしれないが、このような出来事がなぜ起きたのかは明らかにされない。何となく「怖い」というイメージだけが植え付けられる。こうして、「報復」の名のもとに戦争することをも正当化されていく。
本当は、宗教にとって「原理主義」的であることや「教義」とはどのようなものなのか。本当にその「教義」は暴力的なものなのか、「自爆」しなければならない背景はないのか、それはなぜ「脅威」なのか。一方的に彼らが攻撃してきたということは本当にあり得るのか。
問題は様々な論点をひとつづつ解きほぐすことで解像度が上がっていく。
しかし、強い言葉がより浸透する。恐怖の言葉がより浸透する。丁寧に知ることは時間がかかる。
私の参加したインドネシアプログラムのテーマは「等身大のイスラームに出会う」だった。
インドネシアの大学で日本語を専攻する学生とともに時間を過ごしながら、インドネシアをフィールドワークする。
友達になり、仲良くなり、たくさん話す中で私たちの中のイメージが変容していく。
私たちにとってCoveringされていたインドネシア像、イスラム像が書き換えられていく経験をする。
重要なことは、政治的な立ち位置を明確にすることではなく、モノを見る視点や考え方を獲得することにある。
私たちの見えていない世界を見る。この世界で生きている現実を知るための作法がある。
それは自分の立ち位置を知る作業でもある。イスラエルがガザに地上侵攻したときに、私の立ち位置はどこにあるのか。
何を見て判断するのか。正しさとはどこにあるのか。『イスラム報道』は私たちの情報環境について考えるきっかけとなる。
直接的には、イスラムやアラブ人のイメージを変えるきっかけになる。
次に紹介する著作は『オリエンタリズム』である。
インドネシアプログラムを終えて、進級して3年生になった私は、後期から休学し東南アジアへ旅に出ることにした。
旅のエピソードについては『休学Zine Vol.2』を読んでいただきたい。この旅のお供に持参した本が『オリエンタリズム』だった。
本書は、日本でも有名な著書で、ポストコロニアリズムの理論を作ったといっても過言ではない著作である。
本書で、サイードはオリエンタリズムを東洋に対する幻想的な視点であると述べ、植民地支配を正当化する視点として意味を持ってきたと批判している。
私は、旅をする中で、ゆく先々での出会いに感動する。人々のくらし、民族的な装いや景観など、どれも美しく心に打つものがあり、日本にはない「豊かさ」があるように感じた。
しかし、この「豊かさ」があるということにも一種のオリエンタリズムが入っていることを意識しながら旅を進めていた。
旅をする中で私は一度、スリにあった。ベトナムのハノイでカバンから携帯電話を抜き取られた。気づいたときには時すでに遅し。
ゲストハウスの店主もまともに話を聞いてくれなかった。
インドではぼったくりにあった。囲まれてちょっと怖くて高い値段で服を買ったりもした。
駅やバス停では、タクシーの運転手が群がり、観光地では物乞いが群がったことに不快感を感じた。
合理的でないシステムにイライラしたことは何度もあった。
こうした経験は、旅をする前から、また同じ旅人の間でも「警告」される事柄でもあった。女性はレイプ被害にはきおつけろ、というのが定番だし、ドラックの警告も多い。
被害事例も実際に事欠かないゆえに、この「警告」は身の安全を守るためには一部は正しいものだと言える。
しかしながら、「警告」する人の中にある意識として、彼らには「モラルがない」「劣っている」「遅れている」「野蛮だ」という意識があったし、自分にも全くなかったと言えばうそになる。
これらは、オリエンタリズムの表れとして表裏をなす。美しく幻想的であることは、送れていてロマン主義的なものでもある。
現代的な問題で言えば、経済的な植民地主義の問題にもつながるだろうし、アラブ人やイスラム教徒のイメージとも重なりながら、イスラエルの入植を停められずにいる原因にもつながっている。
これは差別の一形態でもあるのだ。
もちろん、イスラエルを批判できない西側諸国のメンタリティには、ホロコーストの歴史や資本の問題など別な要素が多分にあることは理解できる。
しかしながら、それでもなお、「民族浄化」ともいえる、ガザへの攻撃を誰も止められないこの世界のゆがみを私たちは正面から向き合わなければならない。
サイードは徹底して、パレスチナを擁護してきた知識人であった。
今、再び起こったこの悲劇に対して、彼が生きていたら何を語っただろうか。
全く世代ではないが、尾崎豊は「この支配からの卒業」を夢見て、自由を求めて歌った。
私たちは、「支配すること」から卒業しなければならない。攻撃をやめさせなければならない。
イスラエルの首脳とがっちり握手をする私たちの首相にこの苦しみが伝わるか。
いや、伝えなければならない。
参考URL
BBC「エジプト、ハマス攻撃を3日前にイスラエルに警告=米下院外交委員長」2023年10月12日 https://www.bbc.com/japanese/67085822
Yahoo!ニュース 川上泰徳「ガザ全住民をシナイ半島に移送:流出したイスラエル秘密政策文書の全貌。ネタニヤフ首相の「出口戦略」か」2023年11月1日 https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/e6f7a38c96613af2c2e0f9b8e75ea20d7724ecf8